審査について

審査員

杉山至(舞台美術家)・坂本鈴(劇作家・演出家)・山﨑健太(劇評家)・シアターグリーン劇場職員2名・盤外双六  (敬称略)

 

審査方法

各審査員が「作品の面白さ」「舞台美術の活用度」「独創性」の観点で1位から3位を選定。1位...3pt 2位...2pt 3位...1pt を加算し、全審査員の総合点を競う。

審査員特別賞は、各審査員の推薦による。

審査結果

最優秀賞

演劇プロジェクトroute.©

『かみさまの絵本』

審査員特別賞

鉄くずについて【坂本鈴氏推薦】

藤沢千代(演劇ユニットカンタロウ)【杉山至氏推薦】

喜田よつ葉(演劇プロジェクトroute.©)【シアターグリーン劇場職員推薦】

 

最優秀賞:演劇プロジェクトroute.©

講評文

杉山至 氏

 

まずはこの箱庭演劇祭の今回の趣旨である

舞台美術が先にありそこから作品を作ってもらうという試みはとても実験的で良いと思った。

例えばシェークスピアの作品は劇場が変わるたびに作風が変わったと言われている。

円形の客席空間のグローブ座と細長いエンドステージのブラックフライヤーズ座の空間では、芝居の作り方が変わったということだ。

その意味で劇場なのにサイトスペシフィックな空間を舞台美術で作り出し、そこで出来る事、空間がアフォードする事から演劇作品を立ち上げるという試みはユニークで今後もっとあって良いと思う。

 

 そして舞台美術が作り出した空間について。トータルシアターだと感じた。トータルシアターとは、ビューコロンビエ座やワルターグロピウス等が発想したマルチに機能する劇場のこと。

  三段高み。左右対称に前、中、奥と3つのではけの位置。中央バックの観音扉のではけ口。ニュートラルなグレーと黒を基調とした色彩。左右対称性プロセニアム芝居、フレーム感が強くその分、客席方向という前面性を前提とした空間の設えが大きな特徴となる。 

 遠近法を強調した空間の面白さと難しさもある。セットの空間だけだと、とても奥行きがあるのだが、人が入り奥に行くと人が遠くに行ったにもかかわらず、空間とのバランスで大きく見え遠近感が歪む。

男性のある俳優はかがみながら奥の傾斜したフレームから前に出てきた。観る側の印象としては遠近法が働き空間は大きく感じるのに人との関係がおかしく見えた瞬間だ。これは、歌舞伎のように平面的な景を重ねる事で奥行きを作る空間性とは異なるヨーロッパが生み出した、遠近法の空間が持つ構造的な問題でもある。

 

美術の作りこみ、ヨゴシ頑張ってる。

施工も見事で、ベニヤの継ぎ目などもわからないように工夫している点は素晴らしい。

 

敢えて問題を上げるとすれば、

バーティカルサイトライン(見切れ)についてだ。

見切れには大きく二つの方向がある。

水平方向のホリゾンタルサイト ラインと

垂直方向のバーティカルサイトラインだ。

 

今回の美術空間の場合、バーティカルサイトラインの設定が幾分客席の前方向にあったように思う。

客席の傾斜に対して2つ目、3つ目のアーチがちょっと低く感じた。

実際の後方の客席からみると奥の扉の上部がかなりアーチに被ってしまっている。

また、アクトする上でおいしい位置が最前部の平場なのだが、そこまで出るとしかし観客の頭に被り俳優は埋もれて見えてしまう。

 

客席の段差を考慮すると見下ろしの視線が強くなるので、空間を構想するとき前提としていたであろう観客の視点の高さより実際のシアターグリーンの劇場の視点の高さは高いように感じた。

 

また、フレーム感が強いからか、作品の多くがシーンの途中で、演じている自分達を一度カッコに入れてフレームの外から眺めるというシーンをれていたのが印象的だった。

リセット出来るゲームのように。

各劇団への講評は審査シートにゆずるとして。

 

全部見終わった結論としては。

劇場で演劇をする事とは?

劇場の本来の意味とは?を考えた。

劇場=テアトロンとは本来観客席を意味した。

観客がいて初めて劇場になる。

 

今、演劇の境界が曖昧になってきている。

ダイバシティやサイトスペシフィックな作品、

ネットや2次元メディアと切り離しては考えられない。

そして演劇は今、コミュニケーションの芸術として高齢者、障害者、社会福祉とも接点を持つ。

 

誰に何を届けるのか?

多様化している今、表現する事は単純ではなくなっているのかもしれない。

しかしこれはチャンスだとも言える。

社会の成長が鈍化し変化が求められている時にこそ、この古い演劇というメディアは新しい表現を切り拓いてきたのだから。

 

杉山 至

 

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〇演劇ユニットカンタロウ

少女の成長の物語が軸だが、ギリシャ悲劇・エレクトラコンプレックスの要素があったり、太郎から四郎まで魅力的なキャラが絡み合い洋と和の世界観の混ぜ方が面白い。母と娘と父、欧米風の名前の中にあって鈴木敏子と太郎四郎がさえてる。

シーンの展開後半抽象度増すのが面白い。観ていてワクワクする先の展開が読めない感&台本のコラージュよい。

ただ台詞がステレオタイプ。

情熱と、愛情のシーンは秀逸。

俳優としては、太郎のチカラの抜け方が良い。

 

〇演劇プロジェクトroute.©

物語のフレーム観と空間のフレーム感が重なる作り。やはり始まってまたおわる。物語は単一の構造ではなく、美術のフレームが複数あるように複数あるという作り。

このフレーム感はやはり今回の演劇祭に共通した骨格として機能している。

その意味で舞台美術は背景飾るだけでなく、劇構造の根底に関わる、バックグランドとして機能していたといえる。

たかが舞台美術されど舞台美術。やはり舞台美術は骨格をつくる。

この作品はその点を上手くとらえていたと思う。その点での独創性に加点。

 

〇鉄くずについて

思想無きチェルフィッチュ。

チェルフィッチュはそれでも、社会がある。世界がある。

関係なくても世界は動いている事に、批評的であった。 

令和元年 この芝居は、発語する身体が壊れてる。

それは悲しいことであると同時に興味ぶかい。

会話はなく、発語もモノローグというよりは、散文だ。それも誰に向けているのかも良くわからない。

ただ、メディアとしての演劇をそれでも選択している事に興味をいだく。

身体も言葉もバラバラ。空間とも関係を切り結ぶ事を拒否する。

劇団 地点はかなり様々な実験を重ねて作品を作っていくのだが、そんな片鱗を感じた。

ただ、客席にいる事はかなり苦痛だった。

飲みながら?スポーツバーの騒音の中、ツイートでこの散文と出会っていたらどうだろう。

そんな事を妄想させる作品。

 

〇あまい洋々

丁寧な作劇。

後藤さんのピアノ演奏がさらにこの劇世界を補強し見事にカタチ作っていた。

ちょっとした不協和音の挿入など、主人公二人の関係と心の揺れを丁寧になぞっていて、これは音によるスケッチだなと観ながら感心した。

学生だったらすごいなーと気にしていたら、なんと後藤さんではないか。最初に名前を見てなかったので、後でやられたと思った次第。その意味で、ちょっと学生を越えているというか、正直ズルいと思った。

がしかし、丁寧に作品を作り後藤さんをゲストに呼ぶチカラは感じる。

若い女性たちの揺れ動く感情や、家族、友人との距離など丁寧にナイーブに作っていると感じた。最後三人しかいない事に驚いた。それほど上手く人間関係を形作っていたということだ。

 

〇なっぱのな

地元高校生の生態。今の日本が抱えいる社会、地方の問題などが学生の会話、身体を通して見えてくる構造は面白い。

ある意味社会派演劇。演技もナチュラルな部分とアニメや漫画のようにデフォルメされた部分が混在しており、創作過程で皆さんが楽しくコミュニケーションしながら作っている風景を想像しました。

良くも悪も、人間関係が狭い。今の日本っぽい。

ネットの情報の深いけど狭い世界にこだわる感じや最近の犯罪、引きこもりとネット社会など、観劇しながら色々考えさせられた。

ツィッターの表現は難しいなと感じた。

誰かが喋っている時、単に他の俳優は待ちになってしまう。

実際のネットの世界ではリツイートなどがタイムレスで重なり合う。

ネットや媒体を通したコミュニケーションと古来演劇が培ってきた身体と生の発話の表現との関係の作り方は、ともかくも今の時代の課題なのだと思った。

 

 

〇「のべつまくなし」

空間のレイヤの使い方面白い

次元の設定が。照明もその空間の使い方を上手く表現していた。

また、舞台美術が前提としているヨーロッパ的装飾と質感にもあった世界観であった。衣装も含め。


坂本鈴 氏

①演劇ユニットカンタロウ

作品を構築するための手つきの大胆な雑さが、舞台美術の「実はある視点からみたら前時代的でチープな顔」をあぶり出したうえに、自分たちは「作りモノである前時代的な演劇」をあえて上演しているのですという表現になっていたのが鮮やか。主役にふさわしいステラの魅力とそれを支える俳優達の巧みな演技によって物語は加速していく。突然のポリアモリー的な恋愛観など、ときおり混ざる予測不可能なディテールの鋭い笑いなどが秀逸で、あっという間の45分だった。しかし、雑さを「あえて」とみせるために、「雑ではない」というところを観客に提示する必要があるだろう。また、ラスト前にステラが父親を殺すことにより自分を縛りつけていた過去と決別するというような重要な幻想シーンがあったが、果たしてそれが機能していたかというと疑わしい。なぜならばステラは父親に縛られている人物としては描かれていないからだ。ではそのように描けばいいかというとそうではないように思う。理由は、「あっさり家を出て16年間父親のことは忘れてしまっている」というステラの過去に縛られない人物造型こそがこの作品の魅力になっているからだ。ステラは無邪気に次々に新しい出会いを愛し、むしろ周囲はステラに縛られ続けている。その構造を使って作品テーマである「過去との決別」について描く方が、説得力のある作品を作ることができるのではないだろうか。ラストのもう会えない人たちへ別れをつげるシーンは感動的で、それは前時代的な演劇への埋葬にも思える。ぜひステラには過去や歴史や我々が培ってきた色々なものを無邪気に軽やかに埋葬してほしい。

 

 

②演劇プロジェクトroute.©

出演者たちが圧倒的にイメージの共有ができていて、そこに観客を惹きつけるパワーと中毒性のある魅力が宿っている。ファンがつきそうな劇団だと思った。

舞台美術との融合もすばらしく、「このセットはこの劇団の本公演のセットです」と言われたらそうだろうとおもえるほどだった。

とはいえこれはこのままでいい演劇だとはいえない。

大きな問題は、冒頭で観客に提示したものに作品全体として応えられていなかったことにあると思う。

冒頭のシーンが観客に与えているのは、「なぜ彼女は苦しそうなのか」「物語とはなにか」「彼女は何者か」というものへの興味である。しかし、この作品はそういった期待にこたえるようには展開してはくれない。それは意図的なものではなく、作り手が無自覚であった結果のように感じた。全ての観客に分かりやすい表現をする必要はないし、必ず全てを明らかにする必要があるわけではない。しかし、自分が立てた問いに対して充分に格闘すること、観客に抱かせた期待に対して応えるにせよ裏切るにせよ意図的に駆け引きをすること、それらは作品を立ち上げる際に重要な柱となる部分だと思う。

観客を魅了することのできる劇団だと思うので、雰囲気や世界観だけで自分たちを許さずにそういったことを戦略的に身につけていってほしい。

 

 

③鉄くずについて

志が高く、知的。今回の演劇祭において唯一舞台美術に対してレジスタンスの姿勢をとったことをまず高く評価したい。

とにかく俳優が集中し、説得力をもって存在していた。戯曲は理論が緻密に構成されている、というよりは、「切実であるがエモーショナルになりすぎない言葉」をかなり感覚的に丁寧に積み重ねられていたように感じた。そのため筋や理論よりも「要素」と「存在」に集中させられる演劇だったように思う。戯曲にあらわれる「見る、見られる」という要素、レジュメの内容や、感想戦による視点の移り変わりなどにより、この演劇は「元々持っている価値を見直す」ことが主に表現されているのだと受け取った。またそれは、「彼らが立っている舞台そのものへの疑いの眼差し」を観客に要請しているのだとも思った。そのとき舞台で上演されているものと舞台美術は噛みあうことができずに邪魔をしあっていて、このお互いの居心地の悪さのようなものそのものが、団体の美術に対するレジスタンスとしての表現として立ち上がっていると感じた。しかし私の体感としては「それはともかく、このひとたちの芝居はもっと集中してホワイトキューブで見たい」という身も蓋もない状態になってしまっていた。それは目の前に広がっている「居心地の悪さ」が、表現の価値として小さかったからに他ならない。というのも表現が「抵抗している」ところで飽和して先に進めなくなってしまったように思えたからだ。

舞台美術を批判的に捉えたとして、ではどのように捉え、どのように更新するのか、そこに手を伸ばすこと。この演劇においてはその点がブラッシュアップポイントだったように思う。ともあれ実力のある団体なので、他の上演をぜひ観たい。

 

 

④あまい洋々「わたしを勝手に沈めるな」

6団体の中で作家性というものを最も強く感じた作品。

「物語」に挑み、戦い抜いた末に出した自分なりの結末を破綻なく迎えることに成功していたチームはここだけだったように思う。舞台美術についても人物たちが新宿を海の中と想定するという「現実と空想を重ね合わせながら進んでいく」作品のカラーで、ファンタジックなイメージをもつ美術と上手く融合させていた。しかしそれだけに奥の両開きの扉を「玄関のドア」「カラオケのドア」として活用することは折角構成していた空間のイメージを揺るがせてしまっていたように思う。

ブラッシュアップポイントは人物たちの役割のバランスだろう。この作品は「わたしの輪郭が分からなくなっている少女たちが見つけたり見つけられたりしてわたしを取り戻していくガールミーツガール」なのだと思うが、主人公である月夜が人魚ちゃんを「見つけた」価値が、人魚ちゃんが「見つけられた」価値よりも小さくなってしまっていた。そしてそれによってラストの説得力がぐっと弱まってしまったように感じた。

以上、いくつか難を述べたが、いずれも高いレベルであり、それだけにもったいない点が目についてしまうというものだった。

 

 

⑤なっぱのな

戯曲、演出、演技、舞台美術への取り組み、いずれも高いレベルである種の正解を見せられたような気さえした。一番驚いたのは舞台美術の使い方で、この美術をイメージとして使うでもなく、レジスタンスの立場を取るでもなく、むしろ多くの人がこの美術にイメージするであろうものよりも意味の限定されたものに要約することによって、美術に負けてしまわない上演になっていた。また、それもアイデアだけではなく、作品全体の中で重要なものとして在り続けるのだから、とても技術が高い。戯曲も全体を通してよく計算されていた。そして戯曲が俳優に対して要請している不可の度合いも高かったにも関わらず、それに応えている俳優達も達者であった。

残念だったのは、この作品をその技術の高さほどには面白いと思えなかったこと。この題材にしたこと、この人物たちが抱えるもの、そのことにあまり切実さを感じることが出来なかった。もちろん、切実でなければならないわけではないし、何か伝えたいことがなければならないわけでもない。しかし、ただコメディとしての面白さを追求するならばもっとディテールに鋭さがなければ面白くないし、何か伝えたいことがあるならば上手くまとめすぎているように思う。

とはいえ、これからプロとして活躍していくであろう、と思う程の力を感じた。

 

 

⑥「のべつまくなし」

高い技術でほころびなく完成されていた児童演劇だった。俳優もいいし、演出も上手い。

それだけに、なぜ大学生が概ね大学生に見てもらうこの催しで、このような作品を作って上演したのか、謎めいている。はっきりいって、作品全体を通して到達できる場所があまりにも低い。大学生が哲学という言葉を用いて、「あなたと私」という問題を持ち出しておいてまで追及した先に到達した場所がこの程度のところで許されるわけがない。

しかし、あまりにも潔く堂々と演じきるので、圧倒されて好感をもってしまった。観客を下にみているという雰囲気がない。「これをやっておけばウケるだろう」みたいな甘えのようなものがなく、全力を感じる。この潔さは一体なんなのだろう。謎が深まる。

とにかく完成度は高く、目指しているものがしっかり舞台の上にのっていた上演であると感じるのでその点は高く評価したい。

改善点としては、同じような話が繰り返されていてダレてしまったので、作品全体の中で伝えたいことのために何が必要かを吟味する必要があるだろう。あるいは、20分の短編として作るのも一つの手かもしれない。

 


山﨑健太 氏

前提として、評価の場に出てきている以上、審査にあたって対象が学生であることは考慮しなかった。

「面白さ」「舞台美術の活用度」「独創性」の3項目で1位〜3位をつける方式での審査だったが、「面白さ」と「独創性」の1位は該当なしとした。1位に足る「面白さ」と「独創性」のある作品はなかったということである。

学生演劇は内輪の目に偏りがちなので本気で続ける気があるのならばこのような場も含めて外の意見を聞く機会は積極的に利用した方がよい。

一方で、「外の意見」は「上から」になりがちであり、そのことを利用して若者をコントロールしようとする邪悪な大人は多い。外の意見に耳をふさぐことは望ましくないが、「それはそれ」くらいに聞くのがよいのではないだろうか。

とは言え以下の講評は本気の本音である。

 

▼鉄くずについて『ズーっとヅー』

頂上=消失点へ向かうゴンドラの動きや鴨川を挟んでの会話(縦と横)など、発話されるテクスト内の運動と舞台上の身体の動きによって舞台美術をちゃんと「見る」よう促されたように感じた。それによって舞台美術の「変」さに改めて気づかされた点が面白かった。おそらく演劇祭側が想定していた舞台美術への取り組みとは相当に異なっていたのではないかと思われるが、批評的態度は当然、ものごとへのひとつの向き合い方である。美術の活用度で2位とした。先行劇団の影響が強く見えるのは気になったが、問題意識を自分なりの手法へと昇華するのはこれからの課題でよい。退屈になりがちな方向性の作品をユーモアあるテクストで見られる点にしていたところを評価して面白さの2位(1位は該当なし)、既存の演劇に対する疑いのまなざしがあるという点で(どんなものであっても本来はそこがスタート地点であるべきだが)独創性の3位とした。

 

▼あまい洋々『わたしを勝手に沈めるな!』

描きたい世界観があるのはわかるが、そのままではもとから同じ嗜好を持つ観客以外には届かない。たとえば舞台の下での生演奏は必要だったのか。マイムと実物の小道具とが混在しているのはなぜか。椅子の上に立つ演出は舞台美術と干渉することを考慮に入れてもなおやるべきだったか。個々の具体的部分について、第三者からどう見えるかについてもっとよく検討するべき。

 

▼演劇ユニットカンタロウ『ほとんど、me』

大真面目なのかギャグなのかわからないところが魅力だと思ったが、真面目なのだとしたら考え直した方がいいし、ギャグなのだとしたら面白くないので難しいところ。45分間という時間内に思いついたことを片っ端から詰め込んだ結果、エピソードの軽重や時間感覚がおかしな具合に歪んでいるのを独創性と捉えていいのかどうか。面白さの3位、独創性の2位とした(独創性は1位該当なし)。オチに向かって物語を整理しようとした結果、最後に失速してしまっていたように思う。無理にきちんと終わらせる必要はない。

 

▼演劇プロジェクトroute.©『かみさまの絵本』

なんなのかよくわからない舞台美術に「居場所」を与えるという意味で、全員で踊るPV風の場面は「あり」。舞台美術の活用度の3位とした。また、ある「物語」からまた別の「物語」への移動を舞台美術のフレーム移動で表すところもよかった……のだが、それならば「物語」は2つではなく3つ(主人公自身もカウントするのであれば4つ)用意すべきだったのでは? 1つ目の物語が冗長で、その後が性急に終わらせにかかっているように感じた。

 

▼なっぱのな『きでもぎでもいい』

ベタは笑いの大事な要素だが、ベタしかないのであれば誰よりもうまくやるしかない。いきあたりばったりに笑えるだろうと思うものを詰め込むだけでは笑えない。まずは座組全体で第三者が本当に笑えるものになっているかを検討した方がよい。個々のネタも古いというか誰に向けているのかわからない。twitter上のネタを舞台のネタとしてやる意味は? 舞台の写メを撮らせる演出は必要?(物語的にはリゾート開発反対の話なのだから「映え」はむしろ批判されるべきでは?) 面白さをヨソから借りているだけでは勝負にならない。

 

▼「のべつまくなし」『こうさ』

ある世界観を舞台上に立ち上げる完成度という点では図抜けていた。また、ベタではあるが、並行する三つの世界が存在するという設定はきちんと舞台美術と向き合っていて好感が持てた。舞台美術の活用度の項目で1位にした。しかし、交わらない三つの世界がある→交わる→分断→認め合うというのは45分という限られた時間で同じことを2周やっていて冗長。また、物語の結末はすぐに予想がつくこともあり、45分しかないにも関わらず興味を持続することが難しい。もとからこの世界観に共感する人以外は面白いと思わないだろうと思われる点については作品のテーマを裏切っている(フレームを越えていない)。絵本的世界観は今回のメインの観客であるはずの大学生以上を相手にするには幼すぎるのではとも感じた。

 

▼総評

舞台美術をきちんと相手にしている団体がほとんどなかったのは残念。使いにくいと思ったのかもしれないが、制約があるからこそ普段の自分たちのものとは違う引き出しを開けられる可能性もあったはず。演劇というのは一人ではできないしお客さんに見てもらわないと成り立たないという意味で常に他者との出会いのうえに成り立つものです。